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 ♪ 雑記 「真の意味でない善なら、やらない方がマシ」2010/02/25(木)

例えばこんなのがある。

最近は「やらない善よりやる偽善」という言葉で自己を肯定して、耳障りの良いボランティアが横行している。そして第3者から見たとき、必ずしも相手の立場に立って善行となっているか疑問である行為は多い。

私が調べた限り、この語源はUDがん研究プロジェクトへの参加に対する非公式なキャッチフレーズらしい。つまり、協力を依頼するモノであって善意の有無を問わないが、それは結果的に有益なモノでなくてはならない。

次のLinkからから重要なポイントをピックアップした。

善意ある者は、既に何かしらやっている。善意なき者だけが、やっていないのだ。だからやらない善などないのである。

「やらない善よりやる偽善」は、UDがん研究プロジェクトへの参加の呼びかけにの標語として誕生した(ようである)。そしてUDがん研究プロジェクトは、インターネットに繋がれた個人のPCの余力スペックを掻き集めて、スパコンの代用にするというものである。すなわちPCの余力スペックを提供しさえすればUDがん研究が進展するのであって、善意の有無は問われない。

「やらない善よりやる偽善」は、(1)善意の補完として偽善的行為であり、(2)やりたくないことはやらないという自己満足であり、(3)それゆえ自己の偽善性を自覚している、のである。

マザー・テレサの凄いところは、インドの貧困層とともに寝起きし、共に食事をしたところにある。一人だけ贅沢をするということは考えなかったのだ。ノーベル平和賞を受賞した際に、「晩餐会はいりません。そのお金を貧しい人たちのためにお使い下さい」と晩餐会を断ったのは、貧しい人のことを思うのなら、何故、あなた方は贅沢をしているのかと言いたかったのではないか?

マザー・テレサを偽善と切り捨てることができないのは、マザー・テレサがあえて不利益を被ったからである。やり方次第では、ダイアナのように着飾ることも、美味しい食事をすることもできたかもしれない。その全てを捨てたからこそ、マザー・テレサの善意を否定することができないのだ。思えば釈尊も、全てを捨てて悟りを開いた。ある禅僧は、得るは迷い、捨てるは悟りと言っている。贅沢を捨てるというところに、宗教を超えた共通性があるのかもしれない。

島田紳助のニュースは正にこれである。

  • 学校を作るという善意の補完
  • 建てるだけで、運営は放置
  • 最初のニュースがものがたる

問題点は自分の利益のみを顧みて行ったところでなく、相手の立場に立ってない点でもある。

本当に必要なことは「建てる」ではなく「維持する」ことだと感じました。これは当然のことですが、事実この学校ではこれが行われていないのです。学校の数についても、確かに少なくはあります。しかし、私が見て感じたことに、まったくないわけではありません。現実は学校があっても教師がいません。教師はスコールが降ると休んでしまいます。生徒数が少なく教室は余っております。今のカンボジア(特にコンポントム)には一時的で自己満足のボランティアではなく、アフターフォローを行う、相手本位のボランティアこそが必要だと感じました。 。

確かに偽善である以上 1から10まで世話する必要はないが、島田紳助は1や2で終わってしまった。 軌道に乗るまで 5か6くらいは面倒をみるべきだ。さらに言わせてもらえば自分本位な価値観や精彩の欠いた援助でコトを起こされても、それは相手にとって有益にならない。

画像で言うとこんな感じ

田舎のど真ん中にマンション建築

悪意のないからこそ、それは酷く迷惑になる。
偽善が悪いのではない。偽善に知性が伴ってない点が悪いのだ。

そしてこれに類する名言・格言はいろんな偉人が口にしている。

  • 「勤勉な馬鹿ほどはた迷惑なものはない」
    ホルスト・ガイヤー
  • 「愚者と賢者はともに害がない.半分の愚者と半分の賢者だけがいちばん危険である」
    ゲーテ
  • 「学問のある馬鹿は無知な馬鹿よりももっと馬鹿だ」
    モリエール
  •    
  • 「完全に愚かな者より,半分愚かな者のほうが愚かだ」
    ユダヤのことわざ




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